こんな記事にドキッとしました。

今日、WEBを見ていたら、こんな記事を発見。ここ4,5年の間に芽生えていたもやもやした気持ちが、すっきり晴れました。だって、私もブラウザにはアドブロックをwinもandroid、iOSにも入れているし。広告って邪魔だったんんだよね。

記事はLINEの田端信太郎という方の物で、ドキッとします。

「広告はもはや「嫌われもの」
LINE 田端信太郎

オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ — LINE 田端信太郎


広告はもはや「嫌われもの」なのだ。デジタルネイティブ世代にとって「熱狂」する対象ではない。例えば、その証拠に2016年半ばからiOSの有料アプリランキングのトップにいるアプリをご存知だろうか。それは、広告ブロッカーだ。多くのユーザーがお金を払ってまで、広告など見たくないと思っているのだ。
なぜ広告は、そこまでユーザーから嫌われるようになったのだろうか。多くの広告業界人はなぜ広告が嫌われているのか、本当に理解していない。
広告がユーザーから嫌悪感を持たれるまでになってしまった最大の理由は、一般のユーザー同士のコミュニケーション時間の増加だ。
メディアを通じた情報コミュニケーションは、「情報の送り手から受け手へ」と伝わる。かつては、この「送り手」の位置は、テレビや新聞のようなメディア企業が独占しており、「広告」はその中で送り手がユーザーから課金せずに、無料でメディアを運営するためのパトロンとして、床の間を背にした上席にいつも座らせてもらっていた。そして、日常的に対面をしないことを前提とした一般人同士の情報のやり取りは、手紙や電話といったもので、スケーラビリティを欠いていたのだった。
しかし、そのような状況はインターネットが普及し、個人ブログが当たり前の情報発信ツールになり、さらにはPCだけでなく、肌身離さずスマートフォンを誰もが持つようになって大きく変わったのだ。
いまや、LINEのようなメッセンジャーツールのお陰で、自分の親しい友人や知人、彼氏彼女と「会話」をし続けることが、対面でなくとも常時可能になってしまったのだ。このことのメディア論、コミュニケーション論的な文脈におけるインパクト、恐ろしさはまだ過小評価されてはいないだろうか?
今を15年以上さかのぼる2000年代初頭、ケータイメールの普及を目にし、私が敬愛するメディアクリエイター高城剛氏は「女子高生にとっては、カレシからのメールが最強のキラーコンテンツなのだ」という名言を残した。この言葉の意味を広告業界人はもっと噛みしめるべきだ。
もはや広告のライバルは、プロが作ったコンテンツではない。テレビCMのライバルはテレビ番組でもない。カレシから送られてきたLINEメッセージが待ち受け画面に届き、その中身を読もうと指でスマホを操る、恋愛に夢中な女子高生にとって、あなたが関わるバナー広告やCMは目を止めるに値するものなのだろうか。このことを自問自答するところから始めないといけないのだ。
企業の都合から伝えたい内容を一方向的に投げかける広告が、親しい友人や恋人との双方向的なコミュニケーション以上に力を持つことはあり得ない。
では、どうすれば良いのだろうか?
筆者は「広告」の意味を再定義する。そして拡張するべきだと思っている。
広告はどのように変わるべきだろうか?
昨年の12月、筆者の家に「Amazon Dash」がやってきた。筆者は、大のウイスキー好きであり、家にいる夜は、ほぼ毎晩、ハイボールを飲んでいる。そのような筆者にとって「炭酸水」が冷蔵庫から切れていることは、トイレにトイレットペーパーがない、というような惨事であるため、物理的にワンボタンをPUSHするだけで迷わずに、とあるメーカーの「炭酸水」がすぐに届くAmazon Dashボタンを頼んだのだ(ちなみにAmazon Dashボタン自体は500円ほどする)。
家にAmazon Dashボタンが届き、冷蔵庫に貼り付けた。Amazon Dashのボタン上には、当然のことながら、その商品のロゴ(筆者の場合は、ウィルキンソンの赤いロゴ)が表示されている。
それをみてハタと気づいたのだ。なんだ、Amazon Dashって最新かつ最善の広告フォーマットの2016年12月Versionではないか、と。
冒頭の私の指摘に戻ろう。
有料アプリを買い、金を払ってまで、「お前の顔なんか見たくねーよ、バーカ!」と思われている広告がある。かたや、お金を払いわざわざ注文をしてまで、消費者が喜々として、炭酸水の生産者である企業にとって需要の最前線である冷蔵庫の上に貼り付けられる広告もある。
この絶望的なまでに埋めがたい差は、何がもたらしているのだろうか。
Amazon Dashのユーザーエクスペリエンスは、難しいターゲティング広告とは違い、小学生はおろか、おそらくチンパンジーでも理解し、注文することが可能なくらいにシンプルだ。
「炭酸水が飲みたいという欲求があり、そこにその欲望を満たす商品が不足した状況があり、ボタンを押せば欲求が満たされる」
ただそれだけである。消費者の欲求が知覚され、需要が認識され、欲求を満たそうとする行動の文脈にかぎりなくフィットし、埋め込まれている。これこそが2017年以降に求められる広告の最善のあり方なのだ。
筆者は、冒頭で「オーケー、認めよう。広告はもはや『嫌われもの』なのだ」と書いた。では広告業界人は、どうすればいいのだろうか。そして、広告はどのように変わるべきなのだろうか。筆者の考える現時点での結論はこうだ。
これからの広告は、欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるものになるべきだ。そして欲望は、広告が一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきものだ。
そして熱狂は、満たされなかった欲望、抑圧が解放されるときに、消費者が結果として感じるべきものであり、広告業界が一方的に熱狂を創り出せると思っているのなら、それは大きな勘違いなのだ。」